馴れ合いは嫌いなはずだったけど、気づいたらどっぷりと浸かっていた。
築き上げた信頼がくずれるのは容易い
気をつける
都市を抽出していく思考。何をどう受け入れるか。能動的な街との関わり。既にある複数のパラメータを抽出し、余白を埋める。
自分も微小ながら参加していたプロジェクトの、とりあえずの設計終了お疲れさん会に参加してきた。おいしい中華に舌鼓。皿をたくさん頼んで、どれも残す。これが正しい中華の食し方だとボスは言うけれど、只もったいないだけ、大人の悪いとこ。ましてやここは日本。そんなことに適応してかなくていいと思う。食事後、新宿二丁目見学。プロジェクトメンバーの中に、公園のトイレがあまりにも似合う人がいた。んでカラオケ。きつく苦しい仕事をこなしてきた人には発散の場だったけれど、自分は何も苦しんでないのであまり楽しめない。距離。ギャップ。そしておそらく”空気”を壊していた。自分のよろしくないところのひとつ。
これからはもう少し要素を分解して、単純なところから事象を見ていくトレーニングをしていこうと思う。何でもかんでもひとつの固まりと捉えていて、あまりにも複雑な事柄に対して紐解いていくことができないでいたような気がする。一番単純で簡単なことから解くことがいつか毛糸の固まりをほどいてくれることもある。
¶ I read
小さい頃に読んだサン=テグジュペリの「星の王子様」を読み返す。
¶ memo
位置か空間か?
I met friends of university, Hanabara, Chiba, J, Yoshida ''champ'' , Manami, Sugi, Minami, Nakaky, JP, Keiko,(except for Tokky,) for the first time in age. Though most of them are busy with their job, we could gather at Tokyo. I was grad to see them. Even so, I was surprised to Champ who was fattening up well. He should diet!
Today, I had about three occurrences.
トドメを成田まで見送りにいった。彼は私が尊敬できる友人の一人だ。
先日、東京都現代美術館に行って参りました。目的は「屋上庭園」を見に行くこと。10:00頃に家を出て、なんとか到着することができた。本展示において、特に感じるものがあった作品は後半の7と8の展示室。
080606。朝からY-GSA見学のため、横浜へ。実は人生まだ二度目。一度目は例に倣って修学旅行での中華街。
茗荷谷→東京→横浜→馬車道とストレートで10:00からの飯田スタジオ。スタジオ見学は僕を含め三人。やっぱ倍率高いんだろうなー。早速エスキスが始まり、課題は地域に対しての建築的貢献的なことだった。なんとか山の街区とその周辺に対し、どのようにアプローチしていくか。またそのプロセスをどう展開していくかと言った内容。どうやら提出は一ヶ月切ったようで、飯田さんはカリカリしてた。けどいいこといってた。アシスタントの三浦さんは「今後、建築家の在り方の方向性が必ず変わるときが来る。よく言うデザインだけやってるような人は、さらに限られていくよ。」と、感心するコメント。
午後の山本スタジオは休講。なので行きそびれてたfoaの大桟橋へ。赤レンガを経由して、水平線と大桟橋。こりゃすごい。アプローチの道路を軸に一見、シンメトリーな構え。近づいていくと刻々と変化していく姿をダイナミックに感じることができる。まず流れに逆らわずデッキを辿る。シークエンスが見事。建築とランドスケープが交互に現れ、意識の中で融合していく。なんというかすごいジオメトリカルな様相なのに細部の人工的な美しさが現れた瞬間、建築を感じる。ポンツーンは直線的だが動線は滑らかに回遊性を誘導していく。うまいなー。次はデッキ階の中程からスロープをなぞり、折板の大空間へ。大スパンの空間に大して空間のあり方をエレベーターが一番説明している気がした。圧倒的な空間の中では、雑多な要素も秩序立って見えるものだ。駐車場も折板の反復。好きだなこういうの。
他のコンペ案は見ていないけど、このプロジェクトに対するこの上ない提案だったんじゃないかなと思う。久しぶりに世界水準のでっかいいいもんを体験して興奮してたなー。
夕方、お誘いしてくれたJosep Lluis Mateoのレクチャー。水系都市とバルセロナと自作といった内容だったと思うんだけど、スペイン訛は聞き取りにくい。ただでさえネイティブでも微妙なのに。極度に腹が減ったので講演終了後、片づけをほっぱらかし、組長を誘って飯とお酒。飯頼みすぎたし終電間近だし、まったくゆっくりできなかった。 KAIT工房見たかったなー。
25:00、池袋で池ちゃんとナカッキとミナミと、ショットガンとカラオケで朝まで叫び続けちゃった。
横浜駅は玄関口として最悪だった。結構ガッカリ。
いつも通り、やんなきゃいけないことが山積みだ。英語、筆記試験、即日設計、ポートフォリオと、マルチタスクは苦手なので、虱潰しに一つ一つやんなきゃだ。
某事務所の友人(同居人)のナカッキーが先ほど帰宅して、彼がメインでやってるコンペの案をみせてくれた。彼らしいドローイングで、彼らしい話の展開があったところで、「俺のパースってどんなんだ」という話。ナカッキーは定規と線の太さを用いて、奥行きや構成の対比を表現している感じ。一方の僕はシンプルなペンの線とこれでもかっていう影。なんのこっちゃって感じになりがち。自分でも無意識にペンを走らせているから、本人は詩的な空間と構成をアピールしているつもりなんだけど、プレゼン的には向いてない気がする。
比較ついでに主な同居人のインテリアから見る分析を試みちゃった。池ちゃんは清潔で洗いざらし。ナカッキーはシャープでクールなハリボテ感。んでおれはなんだろ、ざっくり感か、ジャンクかな?意外とタイプの違うことに気がついた。
そして晩飯はもう一人の同居人、杉やんとラーメン食って飯田橋のmassaってとこでaleを一杯飲んでバイバイ。カウンターが店の外の通りに面して配してあって、最近のお気に入りの屋外系。
20080527。昨日、仕事をサボりつつ、中村拓志の講演会@INAX GINZAへ。なかなかモダンから抜け出した面白い建築を作り出している人だと思っていました。講演内容は資本主義社会に対して、建築は何ができるのかという話を自作にからめて展開。現在のゼネコン、ハウスメーカーの単純的経済性と、巨匠と呼ばれるような建築家の作家性に対する戦略的批評を垣間見た。なるほど僕が依頼主なら彼に頼むわと納得させられてしまうほど、巧みな構造をもった戦略だ。
現在の市場の中で、付加価値と環境問題は重要なウエイトを占めるが、その二つをうまくいなしながら新しい方向にもっていこうとしているように感じる。
友人のてっちゃんは資本主義自体を反対してるし、白ちゃんは"FUCKIN'MEDIA!"という始末。恩恵をさずかっといてそうは言えません。建築を志すものとして現状をポジティブに展開していく方向性をもったお話を聞けたことはなかなか幸運なことでした。環境の最適化ってなとこかな。
昨夜結構呑んだけれども、飲んでもさほど胃は快調で、予定していた西新宿のWAKO WORKS of ARTへWolfgang Tillmansの展示を見に行く。新宿周辺は不思議なところだ。時に妙な虚無感に襲われる。
(from left to right)西新宿のJCT。いままでに味わってこなかった感覚。秩序と混沌。ソトからRoom 1を撮影。日常的な風景の中にアブストラクトな空間が挿入されている。
んでおさらい。
Wolfgang Tillmansは1968年Hamburg生まれ。London在住。2000年にTate Britainのターナー賞を受賞している。今回の展示はいくつかの写真によって構成されているて、Room 1とRoom 2で作品の内容が異なる。Room 1では日常の中の一瞬の繊細な美しさを写真という技法を用いて表現している。ぼくの好きな表現。例えば作品のひとつで、Tシャツのしわ具合や背景との対比、構図によってそれが美しくなっているやつ。日常このくらいのレベルで気づきがあれば、世の中はぐっと素敵になるんだろうなと。
よる抽象的な空間のRoom 2では光沢をもった単一の色彩の印刷物が、おそらく手によって折り目がつけられている。それによって折り目や陰影が落ち、濃淡と反射が単一の色彩に表情をつけている。昔西沢立衛さんが「白は意味をリセットするというより、日常の中で変化に富む色」みたいな言い方をされていたのを思い出す。現像を用いて変化を与えている作品もあった。やっぱりそれもきれいだったが、僕の感性では、いまいち意図が汲み取れなかった。
夜は茗荷谷駅裏のパスタ屋でミートソースの茄子をスパゲッティを食べた。おいしかった。
久しぶりにお酒にお金を費やした。一万円くらい?でも元はとり、おつりがくるようないい雰囲気だった。数えるほどもいない女の子の友人(ほっぺが丸く、あごのない)といい時間を過ごした。二件目の酒場はBAR。地元釧路に昔あったハリウッドカフェのような開放感。開口を全開にできるんですよ。湿度も高く、暑い夜だったので(事務所内が特に暑い)、店内を走り回る風がこんなにも気持ちがいいものだったとは。ビアガーデンとかと違い、半室内は独特な細かい風が走り回るという表現がぴったりな感じ。ここはお気に入りになってしまった。時間にして22:00から27:00位の長い夜だった。
5/21の内田樹のブログに興味深い記述がされている。
結婚論を「妥協と共生」によって問うている。僕にとってあまり納得の行く結論ではなかったかもしれないが、重要な気付きがあった。
彼は「妥協」を次のように定義している。
「妥協」というのは「まず、私がいる」というところから話が始まる。そこに他者が干渉してきて、私の動線を塞ぎ、私の可動域を制約し、私の自己実現を妨害する。私はやむなく、自由を断念し、狭いところで我慢し、やりたいことを諦める。
この「干渉」、「動線」、「可動域」という言語に想像を加速していただいた。研究論文の中で相互依存を考察している場面があったのだけど、その理解を深める単語だと感じている。論文ではC・Alexanderのセミラティスのモデルを採用し、理論上は理解していたけれども、当時は実体験においての経験に実感がわいてこなかった。内田のキーワードによって理論と経験のバランスが均衡して、ようやく自分のモノにできた感がある。いま意識している複雑系へのよいアプローチになってくれるか?
様々な情報が含まれている言葉は、強度を持ち、私たちは適宜それを利用しているが、最近、幼児的で抽象的な言語を耳にすることが多い。
例えば「超」とか、「やべー」とか、「かっこいい」、「かわいい」と言った類。これらを日常で連呼していると、多様な事物の繊細な特徴がたった一語で片付けられ、近い感性を持つもの同士でしかそれらの特性を共有できなくなる。スラング化していく。デザインでコミュニケーションをとるものにとってこれは致命傷だ。そして次第に表現力が低下し、それに伴い感性も失っていきそうだ。
やれだれだれの作品だ、だれだれの建築だとか言うことも想像力を弱めているんじゃないかと感じる。それ自体の本質と向き合い、理解し、表現できるような力を身につけるためには、常にトレーニングしていかなければならない。
空間はもはや存在しない。目映い電燈のもとで雨に濡れている舗道は、地球の中心に向かって沈んでいく。 すべてのものは動き、すべてのものは急速に変化している。ある横顔はわれわれの前でけっして制止しておらず、たえず現れては消えている。網膜に映像の存続によって、運動している物体はつねにみずからを増殖させている。急速な振動のように、その形は全速力で変化している。したがって走っている馬は20本の脚をもち、その動きは三角形になる。 by Umberto Boccioni
『頭の抽象的な空虚と充実』、『空間における壜の展開』、『疾走する筋肉』、『空間における連続性の一つの形態』
最近興味を持った人。そこには破壊以外の何かが存在すると見た。深く掘り下げよう。
080506。ドメと一ヶ月ぶりに会う。ドメは数少ないニュータイプで、別名、唇おばけ。朝、目覚ましがなる前に起きてた。
080507。事務所の先輩たちと夕食を兼ねて建築見学会。ガラス同士の納まり。シーリング。近距離と遠距離でのスパンドレルの感覚の違い。まだかっちりとしたディティール図面を描いたことがないのでピンとこないが、やはりディティールには哲学が潜んでいると思う。普段空間を体験するとき、変に図式や構成と言った表現よりも、細部にその建築や空間の全体性が現れてくると感じることが多い。きっと性格が決定されるんだな。僕のお師匠さんのひとり、ルートヴィッヒ先生の言葉。
夕食は飯田橋の焼き鳥屋。となればビール。人に話を振ることができる人は頭の回転が速く、やはり仕事もできる。鳥、最高。
なけなしのお金でマットを購入。
この写真、妙にかわいい。あんまりやわらかいマットだと腰が痛くなるので、硬いのをと高反発といううたい文句のやつを選んだ。低反発じゃないんですよ。ここ一ヶ月間畳の上でほぼ直に寝ていたのでぐっすりと寝てしまった(笑)。でもまぁこいつを引くとずいぶんと部屋が狭くなる。
とにかくこれから朝の爽快な目覚めを獲得できそうだ。
リアルタイムな記念の日は祝うべきだと考えている。でも記念日となるとただの慣習に思えてきて、ありがたみが薄れていっちゃうんだな、僕の場合。でも今年はとてもうれしかった。驚きが勝って涙は出なかったけれども、徹夜で何も食べてない体は後々、のどの奥から大量の涙を流しましたとさ。
はじめてあったかわいらしい女の子たち(さっちゃん、まきちゃん、あいち)も気さくに話しかけてくれて、次回また会うのが楽しみになった。
まぁ、一番うけたのは次の日の工藤と中木の異色コラボ。異常なまでのガンダムトークは気持ち悪いどころか、尊敬に値する。でもやっぱ気持ち悪い。
次はあいつを祝ってやるんだ。合格祝いだぜ。
先日、銀座のメゾンエルメスで開かれているサラ・ジー展に行ってきた。
展示はとても細かな要素によって構成されていく全体性を持っていて、作品との距離のとり方によって痕跡、カオス、方向性、物語性と印象が大きく変化していく。彼女は会場の空間的な特性を生かしつつも、場を変容させていく。その変化を加速させるような会場の空間構成を見事に演出している。
今回の彼女の展示は遺伝子的な構造をしていて無機質な消費社会の副産物がマテリアルとなっている。それらは一定の秩序を保ちながら、他の異なる秩序をもつマテリアルと共存しあう。これがダイナミックな全体性を創り出してんじゃないのかなと思う。東京的な。無限の読み取り方が存在するんじゃないかなと感じた。
カオス理論についてはの詳しいことは後日、もう少し勉強してからにしよう。