20080527。昨日、仕事をサボりつつ、中村拓志の講演会@INAX GINZAへ。なかなかモダンから抜け出した面白い建築を作り出している人だと思っていました。講演内容は資本主義社会に対して、建築は何ができるのかという話を自作にからめて展開。現在のゼネコン、ハウスメーカーの単純的経済性と、巨匠と呼ばれるような建築家の作家性に対する戦略的批評を垣間見た。なるほど僕が依頼主なら彼に頼むわと納得させられてしまうほど、巧みな構造をもった戦略だ。
現在の市場の中で、付加価値と環境問題は重要なウエイトを占めるが、その二つをうまくいなしながら新しい方向にもっていこうとしているように感じる。
友人のてっちゃんは資本主義自体を反対してるし、白ちゃんは"FUCKIN'MEDIA!"という始末。恩恵をさずかっといてそうは言えません。建築を志すものとして現状をポジティブに展開していく方向性をもったお話を聞けたことはなかなか幸運なことでした。環境の最適化ってなとこかな。
昨夜結構呑んだけれども、飲んでもさほど胃は快調で、予定していた西新宿のWAKO WORKS of ARTへWolfgang Tillmansの展示を見に行く。新宿周辺は不思議なところだ。時に妙な虚無感に襲われる。
(from left to right)西新宿のJCT。いままでに味わってこなかった感覚。秩序と混沌。ソトからRoom 1を撮影。日常的な風景の中にアブストラクトな空間が挿入されている。
んでおさらい。
Wolfgang Tillmansは1968年Hamburg生まれ。London在住。2000年にTate Britainのターナー賞を受賞している。今回の展示はいくつかの写真によって構成されているて、Room 1とRoom 2で作品の内容が異なる。Room 1では日常の中の一瞬の繊細な美しさを写真という技法を用いて表現している。ぼくの好きな表現。例えば作品のひとつで、Tシャツのしわ具合や背景との対比、構図によってそれが美しくなっているやつ。日常このくらいのレベルで気づきがあれば、世の中はぐっと素敵になるんだろうなと。
よる抽象的な空間のRoom 2では光沢をもった単一の色彩の印刷物が、おそらく手によって折り目がつけられている。それによって折り目や陰影が落ち、濃淡と反射が単一の色彩に表情をつけている。昔西沢立衛さんが「白は意味をリセットするというより、日常の中で変化に富む色」みたいな言い方をされていたのを思い出す。現像を用いて変化を与えている作品もあった。やっぱりそれもきれいだったが、僕の感性では、いまいち意図が汲み取れなかった。
夜は茗荷谷駅裏のパスタ屋でミートソースの茄子をスパゲッティを食べた。おいしかった。
久しぶりにお酒にお金を費やした。一万円くらい?でも元はとり、おつりがくるようないい雰囲気だった。数えるほどもいない女の子の友人(ほっぺが丸く、あごのない)といい時間を過ごした。二件目の酒場はBAR。地元釧路に昔あったハリウッドカフェのような開放感。開口を全開にできるんですよ。湿度も高く、暑い夜だったので(事務所内が特に暑い)、店内を走り回る風がこんなにも気持ちがいいものだったとは。ビアガーデンとかと違い、半室内は独特な細かい風が走り回るという表現がぴったりな感じ。ここはお気に入りになってしまった。時間にして22:00から27:00位の長い夜だった。
5/21の内田樹のブログに興味深い記述がされている。
結婚論を「妥協と共生」によって問うている。僕にとってあまり納得の行く結論ではなかったかもしれないが、重要な気付きがあった。
彼は「妥協」を次のように定義している。
「妥協」というのは「まず、私がいる」というところから話が始まる。そこに他者が干渉してきて、私の動線を塞ぎ、私の可動域を制約し、私の自己実現を妨害する。私はやむなく、自由を断念し、狭いところで我慢し、やりたいことを諦める。
この「干渉」、「動線」、「可動域」という言語に想像を加速していただいた。研究論文の中で相互依存を考察している場面があったのだけど、その理解を深める単語だと感じている。論文ではC・Alexanderのセミラティスのモデルを採用し、理論上は理解していたけれども、当時は実体験においての経験に実感がわいてこなかった。内田のキーワードによって理論と経験のバランスが均衡して、ようやく自分のモノにできた感がある。いま意識している複雑系へのよいアプローチになってくれるか?
様々な情報が含まれている言葉は、強度を持ち、私たちは適宜それを利用しているが、最近、幼児的で抽象的な言語を耳にすることが多い。
例えば「超」とか、「やべー」とか、「かっこいい」、「かわいい」と言った類。これらを日常で連呼していると、多様な事物の繊細な特徴がたった一語で片付けられ、近い感性を持つもの同士でしかそれらの特性を共有できなくなる。スラング化していく。デザインでコミュニケーションをとるものにとってこれは致命傷だ。そして次第に表現力が低下し、それに伴い感性も失っていきそうだ。
やれだれだれの作品だ、だれだれの建築だとか言うことも想像力を弱めているんじゃないかと感じる。それ自体の本質と向き合い、理解し、表現できるような力を身につけるためには、常にトレーニングしていかなければならない。
空間はもはや存在しない。目映い電燈のもとで雨に濡れている舗道は、地球の中心に向かって沈んでいく。 すべてのものは動き、すべてのものは急速に変化している。ある横顔はわれわれの前でけっして制止しておらず、たえず現れては消えている。網膜に映像の存続によって、運動している物体はつねにみずからを増殖させている。急速な振動のように、その形は全速力で変化している。したがって走っている馬は20本の脚をもち、その動きは三角形になる。 by Umberto Boccioni
『頭の抽象的な空虚と充実』、『空間における壜の展開』、『疾走する筋肉』、『空間における連続性の一つの形態』
最近興味を持った人。そこには破壊以外の何かが存在すると見た。深く掘り下げよう。
080506。ドメと一ヶ月ぶりに会う。ドメは数少ないニュータイプで、別名、唇おばけ。朝、目覚ましがなる前に起きてた。
080507。事務所の先輩たちと夕食を兼ねて建築見学会。ガラス同士の納まり。シーリング。近距離と遠距離でのスパンドレルの感覚の違い。まだかっちりとしたディティール図面を描いたことがないのでピンとこないが、やはりディティールには哲学が潜んでいると思う。普段空間を体験するとき、変に図式や構成と言った表現よりも、細部にその建築や空間の全体性が現れてくると感じることが多い。きっと性格が決定されるんだな。僕のお師匠さんのひとり、ルートヴィッヒ先生の言葉。
夕食は飯田橋の焼き鳥屋。となればビール。人に話を振ることができる人は頭の回転が速く、やはり仕事もできる。鳥、最高。
なけなしのお金でマットを購入。
この写真、妙にかわいい。あんまりやわらかいマットだと腰が痛くなるので、硬いのをと高反発といううたい文句のやつを選んだ。低反発じゃないんですよ。ここ一ヶ月間畳の上でほぼ直に寝ていたのでぐっすりと寝てしまった(笑)。でもまぁこいつを引くとずいぶんと部屋が狭くなる。
とにかくこれから朝の爽快な目覚めを獲得できそうだ。
リアルタイムな記念の日は祝うべきだと考えている。でも記念日となるとただの慣習に思えてきて、ありがたみが薄れていっちゃうんだな、僕の場合。でも今年はとてもうれしかった。驚きが勝って涙は出なかったけれども、徹夜で何も食べてない体は後々、のどの奥から大量の涙を流しましたとさ。
はじめてあったかわいらしい女の子たち(さっちゃん、まきちゃん、あいち)も気さくに話しかけてくれて、次回また会うのが楽しみになった。
まぁ、一番うけたのは次の日の工藤と中木の異色コラボ。異常なまでのガンダムトークは気持ち悪いどころか、尊敬に値する。でもやっぱ気持ち悪い。
次はあいつを祝ってやるんだ。合格祝いだぜ。